先人の想いを未来へ継承するために

先人の想いを未来へ継承するために

黒 田
おはようございます。遠路お忙しいなか、ありがとうございます。
当町は伝建地区で、究極の漆喰技術で評価されている町です。しかし、修復するにも職人も材料も道具も入手困難な時代に突入しているというのが現状です。こういう状況を少しでも打破していけるよう、一石を投じたい。みなさんと共に、先人の想いを未来へ継承することを考えていただけると幸いです。
高 橋
小林先生にもご指導いただきながら今回の3回目に至りました。左官会議のみなさまのご尽力に感謝します。増田の蔵の価値に気付いた各方面のみなさまにも感謝いたします。
10年くらい前から又六さんはじめ、なんとかしなければと取り組んだ結果、平成25年に伝建地区に選定され、町並みの価値をどう継承するかが課題となっています。それまでは蔵はあたりまえにあるもので、もしそのまま価値にも気付かないままだったら、20〜30年後に眠ってしまったのではないかと思われます。
この素晴らしい蔵をしっかりと継承するには、職人さんの技術や家主のみなさま地域のみなさまのご理解あってできるものだと思っております。その気運をみんなで盛り上げて、増田地区横手地区が磨かれていくよう祈念するものでございます。
挾 土
まず、日本左官会議はなんぞやということですが、そのもととなるのが、ぼくの隣にいる久住さんです。時代のなかに忽然とあらわれて、伝統、革新、海外の技術を混ぜ合わせて広く世の中に公開して、死にかけていた左官を復活させたのが久住さんです。その後、集まった職人たちは枝分かれしていきましたが、そのなかのひとつが左官会議というふうに思ってもらえればよいと思います。左官の魅力を広く世の中の人たちに説明し、わかっていただけることを課題にして活動しています。
小 林
まだエンジンがかかってないので、誰か一曲、歌でもどうですか(笑)。そういうわけにもいかないので、増田町の磨きについて、地元にある、いつも見ておられる蔵について特徴をお伺いできたらと思います。
松 本
ここらへんにいる左官屋としては、とりあえずすごい蔵だな、珍しいものだな、すごいものだな、としか思っていませんでした。最近になって、みんなが集まってきて、本当にすごいものだと知りました。まことにすみませんが、そんなものでした。
佐 藤
ここの隣がうちですけど、住まいが蔵というのは、増田のなかではうちだけです。生まれたときから蔵のなかにいて、蔵という感覚がなかった。それがあたりまえの生活でした。いまから10年前、平成17年に有形文化財になりましたけど、その3〜4年前に、うちの蔵が素晴らしいから調査させてくれということで、調査していただきました。その結果、登録有形文化財に申請したらどうかといわれ、うちの蔵はそれだけの価値はないからいい、と最初はお断りしました。いや、そんなことないからと言われてお願いした結果、母屋と文庫蔵が登録有形文化財になりました。ですから、自分たちが気付かずにいた蔵が注目され出したのが平成17年です。
その年に蔵の写真集が出ました。地域の人間も、それぞれの家に蔵があることはわかってましたけれど、他人のうちの蔵は見たことがなかったんですね。写真集が出て、内部も写真で公開されて、まちなかの人たちがいちばん最初にびっくりした。地域の人も他人のうちの蔵は見たことがありませんでしたから。それにそれまで自分のところの蔵がいいとは夢にも思っていなかったのです。伝建地区になって、急に観光のみなさんがいらっしゃって、増田の蔵はすばらしいと言われ、あ、そうかということで、この地域の人たちもようやく自分の蔵の価値を認識して、保存して次の世代に継承していかなければならないのかな、というような、最近そうなってきたような状況ですね。
小 林
生活のスタイルは変わりましたか?
佐 藤
観光のみなさんが来て、この蔵はすごいとか言われますと、地域の人たちも認識あらたにして、守っていこうということになります。私的な空間を案内することにはたいへんな部分もありますが、この地域の蔵が注目されて、活性化されればいいな、と考えてご案内しています。
鈴 石
伝建に選定されそうだということで、まちなみ研究会は、調査をお手伝いしようということで始まりした。増田町に蔵があるということはなんとなく聞いていましたが、横手市民にとっても「都市伝説」のような話だったんです。その前に後藤治先生(工学院大学)がいらっしゃって、まちなみや蔵について1年間勉強会をしました。昔の増田町をどうやって残して継承していくか、今後、増田町をどうしていくかというお手伝いをしたり、いま実際に修理修景の工事も行われていますが、それも記録して残して行くという活動を行っています。3年前に発足したんですが、私たち建築士は、フラットというか無知というか、真っ白なかたちで入ってきて、いま勉強中というところです。
小 林
調査や監修をしているということでしょうか。
鈴 石
文化庁の補助をいただくということで、流れにのっとらなければなりませんので、事務的な手続きや、技術的なお手伝いを勉強しながらいまやっています。
黒 田
いま、山中一郎家の修理に携わっています。主屋なんですけれど、補助金を使っての修理事業になるので、古い資料、たとえば古い写真に極力近くするという課題がありますが、生活できることも優先しなければならない。また時代設定は明治なのか大正にするのか、どの時代に戻すんだということがあります。新しい木材だけでなく、極力残されている古材を使うとか、ガラス一枚にしても、ガラスでいいのか障子にするのか、いろんなところに気を遣いながらやっているのが現状です。
原 田
私は、九州の大分県日田というところで左官をやっています。重伝地区になって10年経ちました。日田は157軒が指定され、毎年4〜5軒の修理があります。いちばん危ないところから修理していくことになっていますが、既に40棟くらい再生というか助けられたことになります。では、その壁をどう施工するか。日田には左官組合があって20社ほどあります。でもみんなやり方は違うんですね。20社あったら20社みんなやり方が違う。みんな自分のやり方でやりたい。でも、そこにあったやり方でやっていこうと。土を3回塗ってたなら3回、10回塗ってたら10回というように最初の調査で決めて、それにもとづいてやっていくことにしました。
高度経済成長期に我々は土や漆喰から遠く離れてしまいましたから、技術が切れてる左官屋もいます。だから日田左官組合ではマニュアルをつくりました。一本化するのはよくないですけれど、おおまかな下地から上塗りまで、若い人を中心に順次、調査して一冊の本にしました。下地から写真やイラストがついています。それに基づいて修理を行うことにしたわけです。ここのポイントは、時間をかけて昔と同じようにやっていくということです。
昔は材料はその土地でとれるものが手に入ったんですね。いまは流通がよすぎるもんだから、遠くから運んできます。でも、安易に遠くから土を運んでくるのではなく、土、わら、竹、近くの材料を手に入れて、地場の職人が組み立てていくことが重要です。若い青年が一緒にやるとそういうこともつながっていきます。
10年たって課題も見えてきました。若い人材がいない、材料がない、そういうことを少しずつクリアにしなければなりません。
挾 土
飛驒高山にも伝統的建造物群保存地区というのがかなりあります。でも、飛驒は45年くらい前に脚光を浴びて観光客がどんどん来るようになり、土蔵にもペンキ塗ってしまうとか、安易で拙速な古い建物の直し方をしてきました。でもその結果、一過性の観光地になってしまったと感じています。
増田町は何がすごいのか、正直思うのは、職人仕事には、ランク付けというのもおかしいけれど、「まあまあかたちづくったね」というレベルと、「上手だね」というレベルと、もう「生きてるね!」っていうレベルがあります。それが職人のセンスです。土蔵っていうのは、観音扉にしろ、線の集合体です。線で見せています。きのう久住さんが「こういうのをカミソリ仕事っていうんや」って言ってましたが、まさにその言葉がぴったりだと思った。僕は線にものすごくこだわりをもっているんですが、増田町の蔵は、線が生きてるというか命があるっていうか。それを見るだけでもぞくっとします。もっとわかりやすくいうと、天才的な漫画家、井上雄彦さんっているじゃないですか。バガボンドの。あの人の絵なんて、線がひとつひとつ生きています。武蔵の髪が風になびいている絵とか、その線を見るだけでぞくっと来てしまいます。
本物を大事にすると、本物を知る人が訪れる。だから、増田町はやり方によっては、究極の、次元の違う蔵の町になるのかなと思います。
市 長
お褒めと激励と受け止めさせていただきたいと思います。増田は、先駆的に伝統的な建物の保存や町並み形成に取り組まれた自治体に学んで、いいものを残して、本物を見たいというお客さんを集めることですね。十把一絡げにとにかく誰でも来てくださいというのでは、いいものの価値も下がってしまうんだと、教訓を受け止めました。しっかり取り組んでまいりたいと思います。
久 住
僕は角館を何度か訪れています。あそこにも黒の漆喰磨きはたくさん残ってます。増田と比べて、角館の蔵のほうがよく光っている。でも仕事の精度が高いのは増田です。手のきれた仕事です。角館にも修理やまちなみ再生の話があります、でも黒の漆喰磨きをやる職人が育ってません。増田はそれを実現できるかどうかですね。町起こしは競争みたいなところあるので、意気込みがいります。一歩二歩先んじて、黒漆喰ができる職人を育てることが重要なんです。
じつは、ふだんの仕事をしながら黒磨きを勉強するのは難しいんです。日本の左官職人のなかで、ぼくはたぶんいちばん黒磨きをやってます。28のときからやってますから。でも、経験は少なくてもうまい職人が突然出たりします。やり方はいっぱいあって、技術とはどんどんよくなるものです。伝統はこれや、というのがおかしい、技術とは革新の連続で今に至ってるんです。伝統伝統という人に、あなたの伝統はいつの時代に止まった伝統なんですか、100年前なのか200年前なのか昭和11年なのかと聞きたい。伝統もよくならなくてはあかん。よくならないから、広がらない。固定化された技術を伝統ということにぼくは常に反感があって、それやったら僕はもっとうまくやると思ってやってきました。若いときから嫌みな左官だったんです(笑)。
あの本(『増田の蔵』増田「蔵の会」発行)は立派ですね、感動しました。町がここまで意気込みかけてやってるのかと。あの本でわかりますよね。だからこそ、どの地域より、先んじて職人を育てるのが重要です。
でも、さっきの話に戻りますが、仕事をしながら黒漆喰磨きの練習しようと思っても、個人の努力を超えた問題が潜んでいます。かなり訓練しないとできないので。だから補助金制度をつくるとかして、とりあえずひとりでいいから、精度の高い職人を短時間で生み出す努力をしてはどうでしょう。
黒漆喰の練習をするのは、春から秋、気温も体温も高いときに仕上げる仕事なんです。地域によって言うこと違いますが、スイカを食べる間とか、僕が聞いたのはきゅうりを食べられる間しかできない仕事ということです。なぜか、石灰は早く乾いたほうが光りやすいし、最後は手ごすりしますが、ぼくみたいにやせっぽちよりも、メタボな(笑)汗をかく職人のほうが光りやすい。
だからちょっとメタボな職人で、熱心な人を早急にレベルアップさせるのが早道かと思います。
小 林
今回、私のほうで材料つくっていて、基本にしていましたが、親方(久住氏)の配合でやり直しました。だからちぐはぐな材料になっているところがありますが、昼からの実演で見てください。
久 住
若いやつの努力にケチをつけるのが僕の立場ですから(笑)。なぜこの調合なのか。糊が濃くなったり薄くなったりするとどうなるか。それが昔からここで行われていたやり方と合致するのか。勘と経験の世界だけじゃだめです。左官の世界も物理と数学の世界です。そういうことも含めてこのあと実演できればと思います。
挾 土
僕も一時期、黒の漆喰磨きに憧れて、夢中になってやった経験があります。でも、最初はできたけれど、あとで白華するといった問題がどうしても解決できない。それで挫折したというか、久住さんはその後もやってますが。
ここでいちばんすごいのは、黒磨きの大壁です。かけもの、段々になっているところですね、あれは部分部分がちっちゃいんで、俺もやれって言われたら執念を燃やせばできるなと思う。パズルのように組み立てて塗っていくというかたちなので、努力すればぴかっと仕上げられる可能性はある。でも、大きな面はどんなメンバーが揃ってどんなタイミングでやったのか、ぼくには皆目検討がつかない。
あとすごいのは、さっきもいいましたが、ここのカミソリ仕事のレベルの高さです。なんという生きた線で正確度で、もう神がかったような精度でできてるのか。3ミリとか4.5ミリくらいの角面をまっすぐ漆喰で引くっていうことですが、ほんとに腕のいることなので、そこはここの一番の命として、黒磨きと同じくらい勉強していくというか、執着心をもって大事にしてもらいたいなと思う。その勉強はがんばればできます。