《追悼》奥田信雄さん
令和3年10月12日、またひとりの巨匠が永久の旅路についた。
その一報を受けた時、ひたすら後悔の念に苛まれた。ひと落ち着きした感はあれ、まだまだ感染症の脅威が治まる気配はなかった。もしも自分がうつすことにでもなったらと訊くのを怠ったことを悔やんだのである。
奥田さんには本当にいろいろなことを教えて頂いた。ある日の言葉を思い出す。
「ほんの小さなことを教えてもらえなかったために、15年の月日をかけたことがある。これからはそうではいけない。だから私は教えることにしたのです」
伝統を受け継ぐこととは、師の教えを一向に学ぶことで はない。真意を見抜き、先人の遺した軌跡を読み解く力を具えるのである。
誰にもできることではない。幾世代もの中で、稀に秀でた才のある者が負う責務といえよう。
京都大徳寺玉林院蓑庵。
多くの左官がその名席の土壁に挑んだ。奥田さんもそのひとりであった。
しかし、下地の配合にまで至って作為を読み解く視点は、それまで 誰も持たなかったのである。
土と骨材、水で溶くタイミング。上塗りばかりに注目しがちな流れに一石を投じたのであった。
そして「私の理想は、外壁につかってびくともしない水捏ねです」という。
土と砂に苆。ただそれだけで永年耐えることが、施主に対する感謝の念であった。
そういえば、同胞の佐藤ひろゆきさんが、「奥田さんの荒壁強度はウチの倍もあるんですよ」と仰っていた。京の左官の 心意気は正にここにある。
そんな奥田さんとの会話はいつも刺激的で、且つ禅問答のごとく難解だった。
「難しいのは、土と砂と苆を崩壊寸前のところで繋げることです」
頑強でありながら、フワッとした穏やかさのある土壁。 私はその意味を理解するのに10年かかったのであった。
奥田さんの集めた鏝は優に千を超える。その多くは先人から受け継いだものである。
驚くことに、そのすべてを自ら手入れし、実践に用いていた。同じ道具を使ってはじめて分かることがある。技を盗む極意がそこにある。
奥田さんと出会って20年近い月日が流れた。
まだまだ 教えを請いたいところではあったが、そろそろ甘えてばかりもいられないのであろう。願わくは、奥田さんの教えを少しでも形にできればと思うばかりである。
ご冥福をお祈りいたします。